持ち物を分かち合う

08.9.7

山本 俊正牧師

使徒言行録432-37 持ち物を共有する

沖縄の作家で芥川賞を受賞した又吉栄喜さんが、かなり前のことですが朝日新聞に「インドの境界」という文章を寄せていました。これは、又吉さんがインドを旅行した時のエッセイです。又吉さんがインドの田舎を旅した時、まず驚いたことは、インドの田舎道では、アヒルや豚や犬や人間が、一つの道を仲良く分かちあって歩いていることでした。そして、目を民家に向けると家の中には土間があり、その土間は庭に繋がり、その庭が家の周りの道に、その道が畑に、畑は山に、山が空に、そして空が絶対者なる神に連なっている様に感じた、と書いています。確かに、日本の多くの道はガードレールで仕切られ、家という家は高い塀で囲まれています。日常的に目にするものは、私たちの心のあり方に影響しますので、都会に住む私たちは、無意識のうちに自分と他者を遮断する心の境界線を作ってしまっているのではないかという指摘でした。日本の都会に住んでいる人はインドの田舎に住んでいる人より、他の人と「分かちあう」のは得意でないかもしれません。

もう一つ、これもずいぶん前ですが、イギリス人の人から聞いたお話を紹介したいと思います。この話はクッキーについての、本当の話です。
イギリスのマンチェスターという町のとある喫茶店に、白人の女性がお茶を飲みに立ち寄りました。席に着くと、この女性はお茶と一袋のクッキー(イギリスではクッキーのことをビスケットというようですが、)を注文しました。クッキーとお茶が運ばれ、この女性はお茶を飲みながら雑誌を読んでいると、自分のテーブルの向かい側に、一人の男の人が座っていることに気がつきました。そして、何と、彼は、テーブルの中央にあるクッキーの袋を開け、一つク
ッキーを取り出し、食べ始めたのです。この女性は、ちょっと驚いたのですが、その男の人は、インドから来た人らしく、肌の色が黒い人で、何と言ってよいのかわかりませんでした。

 しかし、彼女は、そのクッキーが自分のクッキーであることを示すために、手を伸ばして、クッキーの袋を自分の方に引き寄せ、自分も一つ取り出し食べました。そしてまた、雑誌に目を戻したのですが、このあとどうなるかと思い、気が気ではなくなり、雑誌を読むことができませんでした。すると、前にいる男の人は、ずっとテーブルの向こう側から、手を伸ばし、二つ目のクッキーを取り、それを食べてしまいました。それを見た女性は、頭に血が上り、大変不愉快になったのは言うまでもありません。しかし、依然としてどうしていいかわからず、二番目のクッキーを自分もつかみ、口に入れて、ムシャムシャとかみ砕いて、その男の人を睨み付けました。

さて、袋にはクッキーが5つ入っていましたので、残りは一つとなりました。まもなく。前にいた男の人は、またテーブルごしに手をずっと伸ばし、最後のクッキーをとると、それを二つに割り、半分をその女性に渡しました。彼は、半分のクッキーを食べ、お茶を飲み干すと、その女性に、Have a good day(良い日をお過ごしください)と挨拶をし、店を出て行きました。女性の方はもうカンカンになり、頭に来て、お茶を一気に飲み干し、読んでいた雑誌を丸めて、ハンドバックに入れようとした時、ーーーハンドバックの中に、自分の注文したクッキーの袋があることを発見したのでした。今まで食べていたクッキーは、実は彼女のものではなく、前にいた男の人のクッキーだったのです

 皆さんは、今日、教会に来る前に、朝ご飯で、パンやお茶やコーヒー、和食の人は、のりや卵を食べたと思いますが、そのほとんどは、日本でつくられたものではなく、海外から輸入したものです。先週の朝日新聞の記事に、人気のある「おかず」の自給率が書かれていました。「天ぷら」の自給率は22%、「ハンバーグ」が13%、「肉じゃが」 29%、「餃子」は15%とのことです。私たちは、自分のものだと思って食べているものが、実は他の人のものだと言うことを忘れているのではないか。私たちはお互いに依存しあう相好依存の世界に生きていますが、お互いに格差もなく「わかちあっているか」というとそうとも言えません。

 先ほど読んでいただいた、使徒言行録の始めの所を読んでいきますと、初代教会のクリスチャンたちが「誰一人、その持ちものを自分のものだと主張することなく、いっさいのものをわかちあっていた」ことが伝えられています。初代教会の人たちは、自分の持っているパンを礼拝の前にさき、共にそれをわかちあってから礼拝をしていたことが知られています。これは「パン裂き」と呼ばれていたようです。お腹がすいた人がいる状態で礼拝を一緒にすることは良くないということです。(現在では勿論、あまり食べ過ぎて礼拝に来ると眠くなるということかもしれませんが)勿論、同じ使徒言行録の中に出てくる、アナニアとサッピラの物語の様に「分かちあう」ことにも限界があり、欺瞞や偽善が「分かち合い」につきものだったのは今と変わらないようです。

この箇所をもう少し詳しく見てゆきましょう。使徒言行録では、2章のところから、ペトロの説教が続き、「信じた人々の群れ」の生活が違った角度から描かれています。4章の2331節の「信徒たちの祈り」を受ける形で、『使徒言行録』は、当時の「理想の社会」として考えられていた事柄の実現が、「信徒たちの群れ」にあることを伝えています。32節の「心も思いも一つにして」は、2章44節の「信徒たちは皆一つになって」のより詳細な表現となっています。「心と思い」という表現は、旧約聖書の『申命記』でよく使われるもので、「人間の全体(すべて)」を示す言葉と理解できます。さらに、2章44節で「すべての物を共有にし」と言われていたことを、ここでは更に、「一人として持ちものを自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と補足しています。「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」とは、厳密に言うと、私有物の放棄することではなく、「私有物への執着の放棄」を意味するものと考えられます。「信徒たちの群れ」は、私有物への執着心を持たずに、精神的な一致をもっていたと述べられているわけです。私有物への執着心を持たなかったのは、彼らが「足ることを知って」満たされていたからに他なりません。「持ち物を分かち合う」、「共有する」という考え方は、古代ギリシャ以来、「政治的・社会的ユートピア・理想」の内容を示すものとしてヘレニズム世界やローマ社会の中で広くいきわたっていた考えでした。プラトンにもアリストテレスにもこの考えがありますし、プラトンは、『国家論』の中で、理想の国家の姿として、「共有の姿」をあげています。それらもまた、「私有の放棄」ではなく、「分かち合うこと」が重要なこととして考えられていたものでした。

 社会における「分かち合い」は、社会構造の重要な概念ですが、『使徒言行録』は、初代の教会の人々が、だれ一人、私有物を「自分のものだ」という主張をする者がなく、「分かち合うこと」を実現させ、一般の人々が理想と考えていた状態を実現させていたと語るのです。『使徒言行録』はルカによる福音書を書いたルカによって書かれたものとされていますが、ルカの福音書の中に出て来る「ザアカイ」の物語でも、悪徳収税人であるザアカイの家にやってくると、ザアカイの魂は福音の喜びで満たされ、思わず立ち上がり、「自分の持ち物、財産の半分を貧しい人に施すこと、また、他人からだまし取ったら4倍にして返す」ことを宣言します。救いの業によって、ザアカイの私有物への執着心が解き放たれることが記されています。

 さらに、34節では、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と記します。これは、みんなが富んでいたとか物質的に豊かだったというのではなく、2章45節と4章35節の「おのおの必要に応じて」を受けて、「不足を感じるものがなかった」という意味です。本質的に「貧」は「不足」ですので、「不足」がなければ、「貧」もないのですから、初期のキリスト教会の人々が「分かち合い」によって不足を相互に補っていた状態をさすものです。すなわち「足ることを知って満たされていた」ということです。

その具体的な実現が、「土地や家を持っている人が、皆、それを売って」、行われていたことを挙げています。しかし、これは、土地や家を持つことを否定することではありません(後で出てくるバルナバという人の例も、売ったのは「畑」であり、「家」ではありませんし(おのおの家を持っている人たちは後にもたくさん出てきます)、ここでも自己の所有の全面的な放棄が言われているわけではありません。言い換えれば、「自分が必要としているもの以外の財産」とでもいえるものでしょう。初代の教会の姿、「分かち合い」を知る上でのキーワードは「必要に応じて」ということだろうと思います。

『使徒言行録』は、初代の教会の姿として、使徒たちの重要な役割と、「分かち合いによる相互扶助」が行われていたこと、つまり、御言葉の宣教と愛の交わりが実態としてあったことを伝えます。しかも、それが何らかの強制や無理によってではなく、キリストを信じた人々の自発的で自然な姿としてあったことを伝えるものです。

現在、世界の人口は、約65億人と言われています。一番多いのは中国で13.1億人、次がインドで11.3億人、続いて、アメリカ(3億)、インドネシア(2.4億)ブラジル(1.9億)で日本は10番目(1.3億)です。1960年の世界人口は約30億人でしたので、現在はその2倍以上です。今のペースで行くと20年後の2030年には、人口が80億人を超すと言われています。当然のことですが、人口が増加すれば、それに合わせて食糧や水が必要になります。しかし、石油資源を初めとして、地球のエネルギー資源には限界があることが指摘されています。私たちは、今後、本日の聖書に書かれているように、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」という「分かち合い」の社会を作り出していくことが益々必要とされています。

今年の春に東京でTICADと言われる、アフリカの会議がありました。その会議では、アフリカでは、多くの国で、一日1ドル以下で生活をしていたり、4人に一人は、5歳の誕生日を迎えられずに死んでしまうことが報告されていました。日本もそうですが、貧しい人は益々貧しくなり、豊かな人は益々豊かになっているのが世界の現実です。「分かち合い」の世界を作り出すこと、呼び掛け、実践するものでありたいと思います。

祈り:恵みの神よ、あなたから与えられている多くの恵みを感謝いたします。私たちの日常生活のなかで、分かち合うことの大切さをもう一度、思い起こさせてください。初代教会の人たちの信仰に学び、私たちも恵みを分かち合う者として、あなたと、隣人に仕えることができますように、どうぞ導いてください。
イエスキリストのみ名を通してお祈りいたします。

アーメン

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