神を拝むことから始まる一年

201013日(日)新年礼拝

マタイによる福音書2112

(占星術の学者たちが訪れる)

山本俊正牧師

新年あけましておめでとうございます。しっかりと準備をし、 用意周到に新年を迎えた方、私のように慌ただしく、準備のな いまま迎えた方、いろいろだと思いますが、新しい年の最初の 聖日を、ロゴス教会の皆様と迎えることができ、嬉しく思って います。私にとって、昨年は、日本で政権交代が起こり、オバ マ大統領が核兵器の廃絶を提唱しながら、アフガニスタンに増 兵していること、新型のインフルエンザが大学でも蔓延したこ と、そしてジャイアンツが三年連続で優勝し、日本一になった ことなどが印象に残っていますが、皆さんはいかがでしたでし ょうか。新しい年を迎え、今年こそ、この世界に昨年以上の、 正義と平和が実現し、皆様にとっても、新しい年への希望や夢 が実現する年となることをお祈りいたします。

 
日本では多くの人が元日から神社やお寺に初詣に出かけ、神さまを拝み、様々なお願いをして一年を始めます。よくあるお願いは、家内安全、無病息災、商売繁盛、かと思います。お賽銭を千円ぐらいしか入れないで、これを全部お願いするのは、虫がよすぎるかもしれませんが、家内安全、無病息災、商売繁盛、いづれも、私たちの人生、毎日の生活において大切な事柄ですので、神さまにお願いするのは、あながち悪いことではないと思います。普段は神様のことをそれほど意識しない人でも、お正月の期間は、少しだけでも、神様を大切に思い、神様を拝み、神様と向き合う時が与えられることは、とても良いことではないかと思います。

さて、初詣の習慣がないクリスチャンはお正月をどのように迎えればよいでしょうか。私は、クリスチャンは初詣に行くべきではないとか、神社のお祭りに行ってはならないとか、盆踊りで踊ってはいけないとかを、ガミガミ言うつもりはありません。  

初詣で神道の神様を拝むのは問題だと思いますが、イエス・キリストを通して、神様に祈れば問題はないと思いますし、初詣の代わりに元旦礼拝を行う教会もあるようです。クリスチャンが日本の文化や伝統行事に参加するのが非キリスト教的だとは思いません。自分の中で、拝む対象がしっかりしていれば問題はないと思います。

キリスト教の暦でいうと、このお正月の時というのは、クリスマス、降誕節の期間に当たります。キリスト教では、イエス・キリストの誕生を一年の始まりと考えますので、12月25日にお正月が始まるわけです。今日、読みました、クリスマスの物語には、東方の占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」として生まれた方を「拝んだ」という物語が伝えられています。通常この聖書の箇所は、クリスマスの後、1月6曰の公現曰、エピファニー、のテキストとして読まれる箇所です。今年は本日が公現日の日曜日になりますので、この御言葉を読むことは、新しい年を始めるにあたって、大変適切だと思います。新年の礼拝に、今日は、この箇所を基に、神様を拝んで始まる一年について、皆さんとご一緒に考えて見たいと思います。

アメリカでは、大晦日から新年にかけて、家庭でパーティをすることがよくあります。そのパーティでよく耳にする話しに、次のようなジョークがあります。タイタニックのような客船がまさに沈もうとした時、救命胴衣、ライフジャケットが不足しており、救命胴衣なしに海に飛び込んでくれるボランティアを募る場合、イギリス人に、「もし、救命胴衣なしで飛び込んでくれるなら、あなたは世界一の紳士ですよ」と言えばすぐに飛び込んでくれる。アメリカ人には「飛び込んでくれたら、あなたは世界一のヒーローです」ドイツ人には「飛び込むことが規則として書かれています」というと飛び込む、日本人には、「皆さん、そうしていますよ」というと飛び込んでくれる、という笑い話です。この日本人の世界的に有名な「国民性」をアメリカの社会学者であるデビッド・リースマンが1960年代に書いた本、「孤独な群衆」という大変、よく読まれた本の中で説明しています。本の中で、リースマンは、当時の現代人の特徴を「他者指向型」の人間と表現しています。つまり、それは自分自身の中にある原理として、行動の指標を示す方向指示機を持っていない人間のあり方を意味しています。現代人にとっては自分の生き方の方向指示は、自分の外側にあって、人々はそこから情報を敏感に受け取って行動しているというわけです。船にたとえれば、羅針盤を持っていないわけです。羅針盤があれば、外からの指示はなくとも、天候が悪くても、自ら方向を探し、決定して進むことができます。しかし現代人はそうではないというのです。受信機だけを持っていて、外から発信される指示を受けながら行動してしまうのです。

リースマンは、この「他者指向型」の人間に対比して「内部指向型」人間というのを提示しています。内部指向型人間は自分の中に、価値判断をする基準、羅針盤を持っている人のことで、宗教的な信仰を持っている人もこれにあたります。現代人の特色として、特に日本人の特色としてよく指摘されることですが、他者が自分をどう見るかを常にきにしていること、他者の行動様式、ファッションや流行を含む行動の仕方を基準にして自分の行動を決めるタイプがまさに、「他者指向型」人間になるわけです。この他者指向型人間は、他者に依存しますので、他者が何を買ったか、何を食べているのか、どのような流行の服を着ているか、等々を常に気にし、自分がその枠組みからはみださないように、不安の中で行動を決めているわけです。「みんな、そうしていますよ」と言われると、海にも飛び込むし、戦争にも、どっと駆り立てられて行くわけです。

実は、聖書に登場してくるクリスマスのあの東方からきた学者たちも、自分の中に最初は方向指示機を持ってはいませんでした。彼らは外からの指示を受信しながら旅を続けてきたわけです。彼らがエルサレムのヘロデのもとに行ってしまったのも、いわば「他者指向」的なあり方の結果でした。「他者指向」はそれが過度になりますと、他者がすべてになっていきます。他者からの指示に依存し、顔色を窺いながら生きるようになります。東方からの学者たちも、ヘロデ王の顔色を伺う傾向が多少あったようです。しかし、聖書の博士たちは過度な意味で「他者指向的」「他者依存的」ではありませんでした。彼らが本当に依存していたのは、人間ではなく、「ユダヤ人の王」として生まれた主、神に依存していたことが読み取れます。11節に、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み」とあります。ここに博士たちの依存の対象が人間でなく、キリストである、御子なる神であることが示されています。「彼らはひれ伏して幼子を拝み」とあります。「ひれ伏して拝み」というと、何か異様な印象を受けるかもしれません。こういう礼拝の仕方は、聖書の民イスラエルにはなかったようです。これは、むしろ東方、オリエント地方の人々の風習だったようです。オリエントの人々は、王様の前で、ひれ伏して拝むのが敬意を表す習慣だったのです。ですから、博士たちは自分たちの風習の最高の姿勢で主イエスを王として礼拝したのです。当時のヘロデ王の支配は、人々に本当の平安を与えてはいませんでした。他者を支配しようとするヘロデ王は、他者に依存している人と同様、いつでも不安に脅かされていたのです。恐怖に駆られることによって、イエスと同じ時に生まれた子ども全てを殺戮するような、とんでもない命令をだすわけです。

中国の巨大な万里の長城や、9・11以降のアメリカの「テロ」に対する先制攻撃なども、その背景には支配者の「恐怖」と「不安」と「憎悪」があるのではないでしょうか。

主イエスを「ひれ伏して拝んだ」博士たちは、喜びに満たされていたことが記されています。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)とあります。
この「喜び」は他者に依存することからは得られない喜びです。自分が自分で自分の内部にある羅針盤に従って「拝む」ことから生じる喜びです。続いて、12節には博士たちが「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあります。この姿の中にも、主イエスを「ひれ伏して拝む」人々が、自らの決断で選んだ神への確信に満たされ、喜びに満ちて、その人生を選択していく様子が感じられます。

私たちは、ここで、博士たちが「ひれ伏して拝んだ」イエスが十字架につけられ、私たちの罪のために、自らの命をささげた神であることを想起する必要があります。このことは、イエスにささげられた贈り物の一つである「没薬」によって暗示されています。博士たちの捧げものは、彼らの信仰告白を表現しています。

イエスは「没薬」を受ける存在だということです。「没薬」は、この箇所以外には、新約聖書では二箇所しか出てきません。一つは、十字架上の主に、「没薬」をまぜたぶどう酒を飲ませようとしたという場面(マルコ15:23)、もう一箇所は、ニコデモが主のからだを葬る時に「没薬」を持ってきたという場面です。(ヨハネ19:39)。「没薬」は主の葬りの時に、用いられるのです。このことは、主イエスというお方が、はじめから、私たちのために命をかけることを目的としてこられた方だということが暗示されています。イエスは、私たちのために命をかけられる救い主、仕えてくださる救い主です。まことの神がここに共におられるのです。

このまことの神の前にひれ伏すとき、人間は、何物も恐れなくてよい者にされます。角度を変えていえば、みんなの人から好かれる必要もないということです。

博士たちは、ヘロデ王を恐れることなく、彼らは他の道を通って自分の国に帰って行きました。それはヘロデを恐れない、博士たちの信仰の道にほかなりませんでした。

私たちが他者に自分の行動の基準を求めるのではなく、本当の神を拝み、出発する時、深い意味で自分本来の人生を生きることができるのです。自分に与えられた道が何かが分かるのです。私たちの神を拝むことから、この年も始めたいと思います。

祈り

恵みの神様、この年も健康を支えられ、新しい歩みを始められることを感謝します。この年もイエス・キリストの生き方に従い、歩むことができますように。人間ではない神様を拝むことによって、自らの道を歩ませてください。イエス・キリストの名前を通して祈ります。アーメン

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