共に生きる

(マタイ201節〜16節)
新年礼拝 2011年1月2日

山本 俊正牧師
新年おめでとうございます。
今年が皆様にとって、神様の祝福に満たされた、よい年となりますことを心よりお祈り申し上げます.

さて、昨年12月末から、お正月にかけて、朝日新聞が「孤族の国の私たち」という特集を連続して掲載しています。お読みになっている方もいらっしゃるかと思います。「孤族」というのは朝日新聞の造語で、「孤独」や「孤立」の「孤」という字と「家族」の「族」を組み合わせて「孤族」と呼んでいます。この「孤族」という言葉は、日本社会の形が大きく変化していることを示しています。通常、「家族」というと、私たちが思い浮かべるのは、父親、母親、それに子どもが1人か2人ぐらいの「標準世帯」です。私より一つ世代が上の人にとっては、この家族におじいちゃん、や、おばあちゃん、が含まれるのではないかと思います。しかし現在は、この標準世帯に迫る勢いで急増しているのが、1人の「世帯」とのことです。

近年は外食産業やコンビニ、インターネットの普及によって、昔に比べて1人暮らしが楽に
なっているは確かです。また、個人を押さえ込むような人間関係から自由にされ、生き方を
自由に選ぶことができるというプラス面があるのも、単身生活の良い点かもしれません。
しかし一方で、私も神戸で単身赴任生活をしているので感じるのですが、単身生活には落と
し穴もあります。自分が高齢になったら、病気になったらどうするか、ロゴス教会の会員の
方でも脳梗塞になる方が最近多いですが、一人暮らしは病気になった時の不安が付きまとい
ます。地縁や血縁という安全網、セーフティネットのない生活は、将来に対する不安や
もろさを増幅させるに違いありません。
このような地縁、血縁社会が崩壊していくような、家族や社会とのコミュニケーションをしない、また、したくな
い若者、中年層が急増し、これに伴って孤独死の増加などが報道されています。これらの現象を総称して、
「無縁社会」という言葉も、昨年、NHKが特集番組を制作し、流行しました。日本は、自殺率が先進国の中で
ワースト2位です。1位はどこだかご存知ですか。なんとお隣の韓国であるとのことです。日本では年間で3万
人以上が自死している年が10年以上も連続しているというのも驚くべきことです。中でも、全国の自治体の
調査によれば、近年 「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など国の統計上では分類されない
「新たな死」が急増していることも報告されていますまた一方ではこうした風潮をビジネスチャンスと捉えられ、
さまざまな単身者向けのビジネスや商品が開発、販売されています。身辺整理や遺品整理、埋葬などを専門
に請け負う「特殊清掃業」というのもあるそうです。共同墓地の世話、話し相手になる電話相談の
商売、また保証人の代行業などの「無縁ビジネス」が繁盛しているそうです。
「孤族」、「無縁社会」という言葉を聞いたとき、最初に私が思い浮かべたのは大阪の「釜が崎」、横浜の「寿」、
東京の「山谷」のような単身者の多い、「日雇い労働者」の街でした。  前にもお話ししたことがあるかもしれま
せんが、私は、1980年代に、冬休みの今頃になると毎年、暮れからお正月にかけて、大阪の釜が崎に出か
けて行き、カトリックのシスターや教会関係者で「釜が崎」に住み込んで活動している人たちと一緒に、「炊き
出し」や「夜間パトロール」と呼ばれる、リヤカーに毛布とスープを積んで、路上で野宿をしている人たちを見て
回る、ボランティアをしたことがありました。暮れから、お正月の時期というのは、仕事が休みになるため、「釜
が崎」に住む労働者にとっては、仕事にあぶれる、最もつらい時期で、寒さのため、路上で凍死する人も出る
わけです。
しかし、「釜が崎」には、それなりに、人と人との繋がりを感じさせる共同体、コミュニティが存在し、お正月は
公園で「餅つき」をしたり、喜びを分かち合う社会が存在していることも、体験することができました。
そのような意味では「釜が崎」や「山谷」は、「孤族」、「無縁社会」という言葉が持つ意味とは、少し違う共同体
なのかもしれません。
 いづれにしても、私たちが「共に生きる」社会とは、ますます多様化し、社会の変化の中で「弱くされた者」、
「傷ついた者」、「関係性を失った者」が顧みられず、疎外されていくような社会になっていくのではないかと
心配されます。
本日取り上げました、マタイの20章1節から16節は、ぶどう園の労働者の「たとえ話」と一般に言われている
箇所です。この箇所は、ぶどう園の主人が収穫のために日雇い労働者を雇うという記事です。ストーリーをごく
簡単に復習します。雇われる人がいくつかのグループになります。まず最初は夜明けごろに第1のグループを
雇うのですが、その時に1デナリオンという日給で雇うのです。1デナリオンというのはだいたい、普通の肉体
労働者が、その曰の生活をして少し貯金もできるくらいの金額です。今で言えば、1万円ぐらいでしょうか。
次に、午前九時ごろにまた雇います。これが第2グループです。第3グループは正午ごろ、第4グループは3時
ごろ、第5グループは5時ごろです。合計5つのグループに分かれて、雇われることになります。そしてこの5つ
のグループに主人は全部1デナリオンの日給を約束するのです。さて、日が暮れて、労働が終わります。日給
の支払いがなされます。このとき何を考えたのか、主人は、午後の5時ごろに雇われたものから支払いを始め
るのです。
約束どおり1デナリオンを支払います。次が3時、12時というふうになってまいります。労働が終わったのは
6時ごろだと仮定しますと、5時頃、雇われた者は1時間しか働いていないわけです。3時頃、雇われた者も
3時間しか働いていないのです。そこで、夜明けごろに雇われた連中がじっと見ておりまして、自分たちは午前
5時ごろ雇われたのだから、それこそたいへんな長時間労働しているわけですから、当然自分たちは、いわゆ
る色をつけてくれるだろうと考えるわけです。

1デナリオン+αがもらえるだろうと計算をして、期待して待ちます。ところが意外にも午前5時ごろ雇われた人々にも、主人は1デナリオンを渡すのです。そこで、この午前5時ごろ雇われた人々のセリフを読みますと、10節から、次のように書かれています。

 「最初に雇われた人たちがきて、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』言外に不満と怒りが込められています。

これは、確かに、きわめて当然な不平であり、申し出だと思います。しかし、この夜明けごろから雇われた連中に対する主人の答えは13節に書かれています。

 「そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、あなたに不当なことはしてはいない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたし は、この最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにしてはいけないか。それともわたしの気前のよさを、ねたむのか』。このように、あとにいる者が先になり、先にいる者が後になる」。

これもまた、いちおうもっともな理屈ではないでしょうか。つまり、1デナリオンの日給で雇ったのだから約束どおりのことを自分はしているにすぎないというのです。ただ十何時間働いた者に1デナリオン、1時間しか働かなった者にも1デナリオンというのは、気前がいいということは確かです。それは、主人は認めるのです。そこで夜明けごろ雇われた者たちは、その主人の気前のよさに腹を立てて、そして1時間しか働かなかった者たちをねたましく思うというわけです。

 さてこの「たとえ話」は何をテーマ、主題にしているのでしょうか。これは一言で言いますと、人間の存在に対する「平等」ということが主題になっています。平等というのは無差別なのです。何時間働こうと、能力、効率がどうであろうと、大切な一人の人間としては平等なのです。この5つのグループは主人から、全く無差別に平等に扱われています。「釜が崎」のような、日雇い労働者の現場の現実からすると、最初に雇われるのは、若くて、体力のありそうな人たちで、高齢でひ弱そうな労働者は選ばれず、9時、12時、3時、5時と次の手配師の選択を待たねばなりません。そういう意味では、この雇用は、1日中、仕事にあぶれた労働者の待つ時間や不安や苦しみを考慮したとも推測できます。

マタイの福音書の中には、これとは全く反対の例え話もあります。今日は、その箇所も司会の真野さんに読んでいただきました。それは25章14節からのタラントのたとえ話です。

有名な箇所ですが現代風にストーリーを簡単にまとめてみます。

これは、ある企業の社長さんの話と考えるとわかり安いです。おそらく外国旅行をするというふうに設定したら現代向きになるでしょう。相当長い期間、会社を留守にいたしますので三人の社員に資本のいくぶんかを託します。貨幣価値はあまり気にしないで考えると、5対2対1というふうになっておりますから、お正月ですから大きく出て、5億円と2億円と1億円位に設定します。そして会社を留守にして、帰ってまいりまして、その預けた資本の精算をするということになります。まず5億預けられた人間は5億を働かせて10億にして待っていたのです。                        

2億を預けられた社員も2億もうけて4億にしていたのです。いずれも資本を働かせたわけです。現代ならば投資信託とかヘッジファンドとか、デリバティブとか金融資本主義の手法を用いたのでしょう。ところが1億預けられた社員だけは1億をそっくりそのまま、土の中に埋めたようにして、ただ保存しておいただけです。すこしも働かせなかったわけです。

そこで、主人は倍増させた2人に対しては、「良い忠実な僕よ、よくやった」とほめます。ところが、1億円をそのままにしておいた人間に対しては、非常に厳しい言葉が出されるのです。「悪い怠惰な僕よ、こんなことになるのだったら、銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。」

これは考え方によっては恐ろしい例え話です。ぶどう園の労働者の話が、人間存在の「平等」を説いているとするならば、この箇所は、まさに、聖書が資本主義を礼賛しているかのような、印象を持つ方もいるのではないでしょう。しかしこの2つの箇所に対比的に示されてしているのは人間の努力をどう評価するかということと、人間は誰でも神の似姿として創造された存在として同じように価値があるということとは、全く別の事柄であるということです。

 私の大学ももうすぐ定期試験になりますが、大学の試験の結果で学生を評価する場合、これは、タラントの例えで行くしかありません。一生懸命努力した学生とそうでない学生を同じように評価することはできません。悪い成績を取った学生に良い点をつけ、良い成績をとった学生に悪い点をつけるということになると、大学が成り立たなくなります。ぶどう園の平等原則はここでは通用いたしません。しかし、同時に、教師にとって、気をつけねばならないのは、良い成績をとった学生の方が、悪い成績をとった学生よりも、人間として価値があると考えてしまうことです。これは、能力主義という物差しで人間の価値までも計り、判断してしまうという、間違いを犯してしまうことになります。

ぶどう園の労働者の中には、高齢者も、障害を持つ者も、外国人もいたかもしれません。

しかし、主人は、そして神は、その人の能力や労働時間を問題にせず、神に創造された人間の存在の問題として、賃金を与えたのです。大学生という存在も、学生である前に人間なのです。生きた人格として、学生を見る場合には、決して試験の成績だけで判断してはならないわけです。試験の成績では、その努力や能力に従って、点数がつけられ不平等に扱われるのですが、人間として、人格として判断される場合には、ことごとく平等に見られなければならないわけです。そこが今日の物語のポイントになります。

日本社会は現在、人間と人間との関係が希薄になり、「無縁社会」、「孤族」、という言葉で表現される社会になっています。本日読みました、ぶどう園の労働者の物語は、その根本原因となる経済の仕組みや教育の問題、私たちの生き方、そして私たちが関係する人間の存在の大切さに大きな問いかけをしていると思います。様々な人々が「共にいきる」社会を構成するかけがえのない存在であることを覚えて、今年も信仰の道を歩みたいと思います。

祈り:恵みの神様、新年を健康のうちに、共に迎えることができ感謝をいたします。人間と人間との関係が
希薄になり、「無縁社会」、「孤族」、という言葉で表現されるこの社会において、人を能力や成果で価値判断
するのではなく、かけがえのない一人一人の存在を大切することができますように導いてください。この年も
あなたと共に歩むことができますように、共に生きる社会へと、一人一人を導いてください。 主、イエスキリスト
の御名によって祈ります。 アーメン。

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