徒労にかける

山本俊正牧師

ルカによる福音書 5章1〜11節

2006年1月1日 新年礼拝

新年おめでとうございます。

 人生には様々な節目があります。この地上に生を与えられた誕生日。学校への入学と卒業。就職、退職、結婚や離婚。兄弟、姉妹、両親との別れの時、突然の節目もあれば日常性の延長としての節目もあります。もちろんクリスマスや新年は、私たちにとって大きな節目の時です。2006年を迎えた私たちは、決意を新たにし、希望を抱きます。しかし、昨年からの様々な出来事を振り返る時、私たちは不安や危惧を抱きながら新しい年を迎えています。新年を迎え日本も世界も大きな節目と曲がり角を曲がり始めていることを実感しているのは私だけではないようです。

 私の好きな小説の一つに、遠藤周作の書いた「おばかさん」という物語があります。お読みになった方もあるかとおもいますが、主人公は、ガストンというフランス人で、フランスから日本にやって来て、日本の家庭に滞在します。ガストンは、町を歩いていると、たくさんの野良犬がいることに気づかされ、可愛そうに思い、家に野良犬をたくさん連れてきては、日本の家族を驚かせます。また、ガストンの善意は、挙句の果てに、遠藤と名乗る殺し屋と友達になり、危険を顧みずに、この殺し屋、遠藤を良い人間にしようと、一生懸命努力いたします。彼の行動は、普通の常識では考えられない行動と映り、周りの人間からは、非常識なことをする、「お馬鹿さん」と呼ばれるようになるのです。

 実は、この小説「おばかさん」は、ドストエフスキーの書いた「白痴」という小説の主題をモデルにしており、もし、イエスだけでなく、旧約聖書にでてくる預言者や、現代でも神の召命を受けた人々というのは、あまり常識的な人は少なく、どちらかというと、八方破れで非常識な人が多いのです。例えばノアです。洪水がくることを知らされ、地上に巨大な箱船を造り始めます。周りの人たちはどう思ったでしょうか。何と被害妄想な、ノアと思ったのではあにでしょうか。
「おばかさん」と呼ばれていたかもしれません。モーセにしても同じです。エジプトで奴隷になではっている多くの人を救い出すことを神から命じられるのです。モーセがそれを引き受けることなど、他人から見れば、とんでもない、愚の骨頂ないでしょうか。「そんなこと一人でできるわけがない」と考えるのが常識的です。
しかし、ノアもモーセも神が共に居てくださるという堅い信仰を頼りに、この非常識を受け入れ、実行したのです。

 私自身も、自慢にはならないのですが、この間、かなり他の人から見たら、無駄、または非常識と思われることに参加してきています。例えば、昨年12月14日に日本の自衛隊のイラク派兵の根拠となるイラク特別措置法が丸2年を迎え、さらに延長が決まりました。私が所属しているNCCでは、カトリック教会や仏教者と協力して、この2年間イラクから自衛隊の撤退を求める署名活動を展開し、毎月内閣府に出向き、小泉首相宛ての署名を届けてきました。その月に集まった署名を届けた後、内閣府のお役人と30分ほど質疑応答の面談をします。その後、議員会館の会議室を借りて署名提出報告会をし、それが終わると首相官邸前に行き、祈りの会をします。キリスト者が祈り、仏教者がお題目を唱えます。とても静かで、非暴力的な祈りの会をするのです。国会議員で報告会や祈りの会に飛び入りで参加して挨拶してくれる人もいます。署名も毎月、必ず集まり、現在、総計4万筆ほどの署名を届けました。私たちは、この署名活動と祈りの会を続けることが、とても大切だと思っています。しかし、道を通る歩行者の人や、国会を警備しているお巡りさんにとっては、「あの宗教者の群れは何と無駄なことに毎月エネルギーをつかっているのだろう、どうせ何も変わらないし、徒労に終わるのに・・・」と思っているかもしれません。まぁなかには、顔見知りになった内閣府の役人や警察官から「よく続きますね、ご苦労様です」と声をかけられる時もありますが、多くの人は、大海の水をスプーンでくみ出すような、無駄な働きと考えられるかもしれません。

 先ほど読んでいたただいたルカに福音書は、イエスに様が弟子たち招く、召命物語が描かれていますが、あまり常識的な物語とは言えません。この物語はマタイの4章にも同様な物語として書かれていますが、マタイでは「イエスがガリラヤの海辺を歩いておられた」という記述で始まります。ガリラヤというところは、辺境の地で人々から余り注目されていない場所でした。イエスの12弟子大半は、このガリラヤであることを記しています。また、ヤコブとヨハネもイエスに招かれると、自分の船と家族をおいて、まるで家出でもするように、すぐにイエスに従ったと書かれています。これもかなり非常識なことです。

 今日のテキストのルカの福音書5章に到っては、シモン・ペテロとアンデレの非常識な行動が、さらに詳しく書かれています。3節のところで朝早く、漁を終えて網を洗っているシモン・ペテロとアンデレに イエスは「船を出して網をおろして見なさい」と言います。シモン・ペテロとアンデレはプロの漁師です。そのプロに向かって魚を捕ることに関しては素人のイエスがプロの漁師に「沖に出て、網をおろして見なさい」と命じたのです。
 5節のところで、シモン・ペテロはさすがに「先生、私たちは夜どうし苦労しましたが何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」というシモンの行いは「徒労にかけてみる」、「無駄なことにかけてみる」ということに他な
りません。常識の枠に閉じこもらない力を信仰は私たちに与えるのです。シモンのイエスへの信頼と信仰が常識の枠を超える決断を導いたと言えるでしょう。
 東京YMCAで主事をしニューヨークYMCAで長い間活躍した本間立夫さんの祖父にあたる人に本間俊平さんという人がいます。この本間俊平さんは、有名な信徒伝道者で工場を経営する傍ら、伝道に生涯を捧げた人でした。本間俊平さんの奥さん、お連れ合いに当たる方の信仰の強さについて有名な逸話があります。ある晩、本間俊平さんが家を留守にしているとき、包丁を持った泥棒が、本間さんの自宅に押し入りました。金を出せという泥棒に対して本間さんの奥さんは黙っていました。すると、泥棒はいきなり、本間さんの奥さんを切りつけたのです。切りつけられた奥さんは、そのとき大きな声で讃美歌を歌いだしたそうです。歌い終わると奥さんは続けて「神さま、この泥棒は自分のしていることがわからないのです。どうぞ許してあげてください」と祈り始めました。これを聞いた泥棒は唖然として、包丁を捨て逃げ出してしまいました。そして、後のこの泥棒は回心し、クリスチャンになり、本間さんの伝道活動を支えたと伝えられています。信仰は非常識であり奇蹟ともいえるのです。

 霊南坂教会の初代牧師であった小崎弘道は「輪郭打破、一点突破、前面展開」という言葉をよく使っていました。私たちが物事に行き詰まった時、私たちが習慣や常識や様々な決まりにがんじがらめになった時、一点を破ることにより、全体がすべて変わり、新しい展開が生まれるということです。

 キリスト者になるということは、」今日の聖書の物語にあるように、イエスの招きに答えイエスに従って生きることを決意するということですが、それは私たちに常識を超えたものとして迫ってくるということがよくあるのです。それは海辺の波打ち際に立った自分が、波に押し出されてゆくのに似てるかもしれません。神さまの恵みによって私たちが、非常識な方向に押し出されてゆくのです。教会があまりにも常識的になり、あたりまえのことだけをしていたらどこから新しいヴィジョンや展望、幻が生まれてくるでしょうか。

 今日の聖書ではペテロが網をあげると、おびただしい魚が入り、網が破れそうになったと書かれています。イエスに従うとき、徒労にかけるとき、その恵みは網を破るほど豊かなのです。「人間をとる漁師にしてあげよう」というイエスの言葉は、「徒労にかける」ことを苦にせずイエスに従って生きるということです。この年、ロゴス教会は新たな歩みを始めます。教会の伝統やこれまでのやりかたを大切にすると同時に、「徒労にかけてみては」いかがでしょうか。新しい展開が生まれるかもしれません。

祈り
恵みの神よ。新しい年を感謝いたします。この年もあなたの招きに答え「徒労にかける」勇気と知恵と力を与えてください。一人ひとりの働きを導き、祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

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