平和を実現する人々」

マタイによる福音書5:112

07.8.5

山本俊正牧師

8月になると、私たちは平和の大切さについて、思い起こす機会が与えられます。
私たちは、広島、長崎の出来事から世界の核の廃絶を願い、敗戦記念の15日は、戦後、日本が二度と戦争をしないことを誓ったことを願い思い浮かべ新しい平和の道を歩み出したことを確認する日でもあります。本朝は、「平和」ということについて、キリスト教と平和の関係について皆さんと、少し考えて見たいと思います。


皆さんは「平和」という言葉を聞いた時、何を思い浮かべるでしょうか。また、「平和」を説明してくださいと言われたらどのように説明されるでしょうか。 
通常、平和とは「戦争のない状態」と長い間考えられてきました。つまり、「平和」の反対は「戦争」と理解されてきたわけです。しかし、世界の様相が1960年頃から変化し、例えば南北問題が世界の中に起きてきて、南の貧しい国と北の豊かな国の経済格差とか、貧困ですとか、差別の問題などが平和 を脅かす要素として考えられるようになりました。
米国で起きた9/11事件以降、各地で起きているテロが問題になりますが、何故テロが起きるのかという原因を考えた時、この南北の経済格差や不均衡は大きな原因であることは間違いありません。

実際、豊かな国と貧しい国々の格差は絶句するほどの広がりを見せているのは、国連の報告などを見るとあきらかです。日本の国内格差も広がるばかりで、今回の参議院選挙で自民党が大敗した背景には、閣僚の発言や政治と金の問題がクローズアップされますが、もっと根の深いところで、小泉政権以降の新自由主義と呼ばれる経済政策によって、農村が切り捨てられ、Working Poorと呼ばれる若者が切り捨てられることへの、しっぺ返しだと思います。

いづれにしても、国連の報告によると、「過去半世紀、かつてない経済発展があった。その一方で、人類の22%にあたる12億の人々が1日1ドル以下の暮らしを強いられている」世界は平和な世界と呼ぶことができません。前にも申し上げたかもしれませんが、平和学を専門にしているヨハン/ガルトウングは平和を2種類にわけています。一つは消極的平和で、もう一つは積極的平和です。消極的平和とは戦争のない状態を言い、積極的平和とは飢えや差別や人権侵害などの構造的暴力のない状態を言います。
ですから、最近は平和というのは、ただ「戦争がない状態」をいうのではなく、むしろ「社会正義が現されていない状況」を含めて考えられるようになりました。このことは、政治学や社会学の分野だけでなく、一般的な理解となっています。


平和の問題をさらにもう少しキリスト教に引きつけて、歴史的に振り返ってみたいと思います。
前回のオリンピックはご存知のようにギリシャのアテネで開催されましが、古代ギリシャ・ローマの時代は、戦争が美化された時代でした。ローマやギリシャの神々の中には、戦う神がたくさん出てきます。当時、戦争は英雄的な徳を示す機会でもあったようです。平和とは、この時代において「魂が平安になること」と考えられていました。つまり、平和は魂の問題であり心の問題として捉えられていたのです。

この古代ギリシャ・ローマの思想、考え方の対極にあった、ヨーロッパ思想のもう一つの重要な潮流は、ヘブライ思想でした。ヘブライ思想はキリスト教に深く関係しています。
ヘブライ思想とは、ユダヤ教の聖書に表れた思想、つまり私たちがいう旧約聖書の中に表現されてきた伝統、そして考え方です。そしてこのヘブライ思想の中で平和は「シャローム」という言葉で表現されます。「シャローム」という言葉はさきほど申し上げた「魂の平安」にとどまらず、家族ですとか、共同体ですとか、様々な民族の間で交わされる挨拶として、使われていた言葉でした。シャロームの意味するところは、平和とは「正義が実現される」ということとして、むしろ人間の全存在、また社会的、政治的な原則を含めた概念として、考えられていたわけです。


<キリスト教の正戦論と聖戦論>

このシャロームという平和は、やがて新約聖書の中に受け継がれてきゆきます。イスラム教の中でも、コーランの中でタラムという言い方で平和が語られます。モハメッドが祝福の言葉としてタラムという言葉を何度か使っています。そしてこの世が終わる終末の時には神が地上に降りてきて、正義と平和が実現することがコーランの中に記載されています。そういう意味ではイスラム教もキリスト教も、同じようなシャロームという概念を継承しているのではないかと考えられるわけです。
このように継承されたシャロームという概念は具体的に当時の原始教会の中で兵役を拒否したり、キリスト教の教えに従って戦うことに協力しないことによって実践されたと言われています。また同様に戦いを拒否して殉教する人々がいたと言われています。


しかし、このシャロームの伝統に大きな変化をもたらしたのが四世紀です。ご存じのように4世紀にはローマ帝国のコンスタンティヌス皇帝によって、キリ スト教が国と結びつき国教となります。その結果、キリスト教も「平和のために武力を行使する」ことが肯定されるようになるのです。この当時の神学者のアウグスティヌスは、たいへん有名な「正戦論」、つまり正しい戦いの論理(Just War)を唱えることになります。

もちろんアウグスティヌスは「戦
争が罪である」ことも一方で主張しているのですが、他方で、罪にならない正当な戦争があり得ることを、提唱します。アウグスティヌスは、次の三つの場合に戦争が可能だと言っています。その第一は「平和の秩序の形成」です。正戦論の骨格を現わすものです。それから二つ目が「悪を滅ぼすため」なら戦争をしてもよいという原則です。
第三番目が「無力の民の防衛のため」なら戦争をしてもよいという防衛論です。この「正戦論」の三つの柱は現在の戦争を承認する国連決議理由とほぼ同様です。四世紀からの「正戦論」は中世を経て、現代にも継承されているわけです。この正戦論は、もう一つの流れである聖戦、ホーリー・ウオーに引き継がれていくのです。


さらに、時代が進み16世紀になりますと宗教改革の結果、キリスト教内部において、カトリック教会とプロテスタント教会の二つに分かれます。この二つは現在比較的仲良くしていますが、過去においては仲が悪かったのです。頻繁に戦争が行われました。ドイツの30年戦争、フランスのカルビン派とカトリック教会の対立によるユグノー戦争、オランダの独立戦争、80年戦争など、これはみんな元をただせばカトリックとプロテスタントのいがみ合いです。そして今でも続いているアイルランドの紛争、これはもう終息することがないような形で続いています。キリスト教が「平和の宗教」とはとても言えない歴史を背負っていることは明白です。

<キリスト教の絶対平和主義と良心的兵役拒否の制度 ー 賢い不服従>

「キリスト教における平和主義の伝統」を考察する時「再洗礼派」と呼ばれるキリスト者の平和主義、絶対平和主義の立場を理解することが大変重要です。再洗礼派というのは、ドイツで生まれたドイツのバプテスト教会なのですが、その流れは、アメリカのクエーカー、メノナイト教会、チャーチ・オブ・ブラザレンなどいわゆる「平和教会」と呼ばれる教会です。
それからアーミッシュの人たちも含まれます。今でも、絶対平和主義の伝統はこれらの小さな教会にひきつがれています。信仰から絶対に自分たちは武器を使わない、戦争には参加しないというキリスト者がいるのです。このひとたちは絶対に自分たちは武器をとらない、という伝統のもとにキリスト教会の重要な問題として平和をとらえています。「自分は殺されても、殺す側には立たない」という信仰です。


その、よって立つところは、新約聖書に基づいていています。イエスの福音は、あくまでも非暴力に徹し、無抵抗で十字架につけられたイエスの生き方に従うことなのです。イエスの非暴力主義は「平和を実現する人々は幸いである」というイエスの説教やイエスが逮捕される時に剣をとって抵抗しようとした弟子をいさめて「剣をとるものは剣で滅びる」と述べた箇所に示されています。

 現在も「平和教会」と呼ばれるアメリカのクエーカー教徒やメノナイトの信仰者たちは良心的兵役拒否の問題を貫いています。たとえばこれらの教会に所属する大工さんが自分たちで家を造ります。電気は使用しません。自分たちが全部自給自足できるように、家のまわりで食べものを作り、軍事費となるお金は払わないのです。つまり自分の収入をなるべく低くして、税金が免除されることによって、その税金が軍事費にいかないようにするわけです。自らのライフスタイルを変えることにより軍事費の拒否をしているのです。

また、自分たちは、良心に従って戦争には参加しないことで、CO(Consciensious  Objector)、といいますが、良心的兵役拒否をしています。アメリカでは南北戦争において聖書と良心に基づいて、徴兵拒否を貫いたクエーカー派やメノナイト教会の実践によって、良心的兵役拒否の制度が各州の憲法や諸規程の中に盛り込まれてたのです。また第二次世界大戦以降、米国だけでなくドイツ などでも、国の基本法の中に自分たちが徴兵にとられるときに、徴兵として何年間かの兵役訓練をうけるか、あるいは病院や社会福祉施設で同じ年数を働くか選択ができるようになっています。「自分たちは戦争に荷担しない」ということが、法律によって保障されているのです。このことは日本でも今後、必要になってくるかもしれません。先日、癌でなくなった小田実さんは作家としてよりは、ベ平連と呼ばれる平和運動家、市民運動の中心的な人物として有名な人でしたが、晩年は良心的兵役拒否の運動を呼びかけていました。

本日の聖書の箇所は、皆さんが何度もお読みになった、山上の説教です。マタイによる福音書 第5章の9節でイエスは「平和を実現する人々は幸い」であると説いています。この箇所で最初に注目したいのは、イエスは「平和を実現する人々は幸い」である、つまり単数の「人」ではなく複数の「人々」は幸いであると述べていることです。イエスは平和を作り出す働きが、個人を越えて、共同体として取り組まれることが強調されていることです。また、イエスは「平和を実現する」と明確に述べています。イエスは「平和を好む人々」、「平和を愛する人々」ではなく「平和を実現する人々」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)の幸いを語られたのです。

平和は、愛するだけでは実現しません。アメリカのイラクへ攻撃と占領もそれが不当で根拠のないものであったことが明らかになっています。この不当な攻 撃を知った大多数のアメリカ人も、尋ねられれば、私たちは「平和を愛している」と答えるでしょう。しかし悲惨な攻撃や自爆テロは続いています。平和は作り出さなければならないのです。実現させない限り失われるのです。
日本には軍隊を放棄した平和憲法があります。しかし、この憲法が現実に合わないという理由で、「改憲」をしようとする動きがあります。久間防衛大臣の発言にもあるように、「広島への原爆投下は仕方がない、しょうがない」、広島・長崎の被爆の体験が風化し、平和が当たり前の時代に生きています。大多数の日本人は平和を愛しています。

しかし愛しているだけでは、平和はどんどん遠くに行ってしまいます。
エフェソの信徒への手紙第2章14〜16節には「敵意という隔ての壁」が平和を妨げていることが書かれています。イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さったことが聖書には書かれています。人間の敵意は罪から生まれます。罪の根本には神からの分離が含まれています。神に対する分離は、人に対しても向けられていきます。神と人とに対する私たちの分離、罪が平和を妨げています。キリストの十字架は、その私たちの罪、分離を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということに他なりません。私たちの、神と隣人に対する罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの離反を乗り越え、平和を宣言して下さったのです。これは神の一方的宣言です。神はイエス・キリストの十字架によって私たちを和解させ、平和の福音を告げ知らせて下さっているのです。
ボンへッファーは次のような平和の祈りを残しています。
「よき主よ、わたしたちに示してください。私たちの求めるべき平和を、 私たちが与えなければならない平和を、私たちが捨てなければならない平和を、そしてあなたが主イエスのうちに与えてくださったあの平和を。」 「捨てなければならない平和」とはなんでしょうか?私たちが自分の平安、狭い範囲での平和だけを考えるようになった時、私たちは他者の平和が乱されても知らんぷりをしてしまうことがあります。

私たちの自己中心的な「平和」が眞の平和の実現を妨げているのかもしれません。イエスが私たちの他者に対す
る無関心という罪を引き受けてくださり、その罪のために十字架で死んだことを想起したいと思います。
イエス様が私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を私たちが、聞きつつ生きることが平和を実現することにつながることを、この時思い起こしたいと思います。
「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持ってくるのではないでしょうか。

●祈り
 主なる神様、平和を覚えるこの時を感謝いたします。あなたがイエス・キリストの生涯を通して示してくださった平和を覚えつつ、私たちも「平和を実現する人々」として歩むことが出来ますように導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン

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