「パウロの回心、親鸞の廻心そして‥‥」

2 007.12.30

中野ユリ

(1) 11月の末に、白築さんより今日の証言依頼がありました。毎日、追われるように暮らしている私にはとてもお引き受けできる条件になく、お断りしましたが、白築さんの窮状もわかる気がしましてお引き受けしてしまいました。

 さて何を、となりますと、証言できるようなものを持たず、またお伝えするような経験もありませんので、最近読んだ本の感想をお話しすることでもよいかとお尋ねしたところ、それでもということで、今日はこの講壇に上らせていただきました。

 最近は二ペ−ジぐらい読みますとパタリと閉じられてしまうのが常ですが、この秋に何とか1冊読み終えましたのは中渋谷教会名誉牧師・佐古純一郎さんの『パウロと親鸞』です。父が買ったものと思っておりましたが1992年新装第一刷となっていますので、父のなくなった後の本となります。私が何時か読みたいと求めたものかと思います。すぐ眠くなることと、このように自分の行動もよく覚えていない人の読書紹介など恐ろしいものだと思えますがどうかお許しください。

(2)この本は「死への自由」という序文から始まり、次のような10章と補章からなっています。

 第1章「ダマスコ体験」と「六角堂体験」 第2章「信仰義認」と「唯信」

 第3章「聖霊の力」と「本願力」     第4章「有ってある者」と「阿弥陀如来」

   第5章「罪人の招き」と「悪人正機」   第6章「死のからだ」と「地獄は一定」

   第7章「私の福音」と「親鸞一人」    第8章「兄弟愛」と「同朋同行」

   第9章「祈り」と「念仏」        第10章「自由」と「自然法爾」

   補章「歎異抄」第2章と「ローマ書」第7

 どの章も同じような問題について、二人がそれぞれにどう悩み考え、どう生きたかについて書かれていました。どれも興味深いのですが、忘れっぽい私の中に残ったことのうち1)「回心」‥‥どうして信仰に導かれ決意したかということと、2)キリストの十字架はパウロ自身のためであった、そして阿弥陀如来の本願は親鸞ひとりのためであったということにたどり着いたことが印象的でしたので、この二つについての報告をさせていただこうと思います。(なお、仏教では復活信仰は考えられませんので触れられていません)

 仏教とキリスト教とを並べて考えるということに問題はないかといいますと、この二つは根本的に違うものです。佐古さんは、仏教は「人間は仏になれる」ということ、それをはっきりと教える宗教であります。

「仏」というのは何か、それは「覚者」という言葉でも表されるように「真理を悟った者」という意味です。

だから人間は真理を悟ったら仏になれるということです。そして真理を悟りきった境地を「仏陀」「仏」といいます。お釈迦さんは真理を悟った最初の人なんです。だから仏陀というとお釈迦さんのことだと思う人がいますが、お釈迦さん自身が最初に仏陀になった人なんです。そしてその後の人たちは、お釈迦さんに源を有する教えを一所懸命に実行して、そのため修行を積む。難行苦行、禅などですと座禅をする。派によってやり方は違っても、このように仏教は「仏になる道」を教える宗教であります。

だから神・仏という場合に聖書の神、キリスト教の神を一緒に並べて言ったんでは、ぜんぜん見当はずれです。なぜならば、(略)キリスト教、聖書の教えでは、人間がどんなに修行を積んでも、神になることは絶対ありえない。そういう意味において、仏教のいう仏陀、仏と、聖書が啓示する神は、本質的に違うんです。仏教とキリスト教とは本質的に違う。そこはもう非常にはっきりしていることなんです。と書いています。

立ち向かっている神と仏は異質なものだけれども、その価値判断でなく、現象としての事実を二人において事柄に即して観るという態度で書かれています。人間の底の底のきわみを見た人が「いのちの救い」という問題に向きあったとき、同じように考え、態度をとるということにびっくりしました

そして自分がキリスト教の立場に立ちますと、以前、遠藤周作が「具体的にユダヤ人の顔と衣装をつけたキリスト像というのはどうもなじめない」というようなことを言っていたのを思いだしますが、日本人である私も、親鸞の悩みや生活をとおしてキリスト教を改めて眺めますと分かりやすいように思えました。

(3)さて、パウロの回心についてですが、パウロについては先生方から度々お話を伺っていますので、まさに釈迦に説法となるかと思いますが。

 パウロの人物像についてはピリピ3:56に自ら「私は生まれて8日目に割礼をうけ、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、立法の義については非のうちどころのない者でした。」と記しています。

非のうちどころのないと自覚した人が、どうして回心するようなことになったのでしょうか。佐古さんは聖書を引用しつゝ次のように言っています。 

「パウロが律法主義者からキリストを信仰する信仰によってのみ義とされるという福音主義に回心したきっかけは、いわゆる『ダマス体験』だったわけです。」使徒行伝9章では、パウロが「ダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロ(パウロ)は地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」‥略‥「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは3日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」 神様から命ぜられたアナニアがパウロの上に手を置いて言います。

「『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元通り目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」

これがダマスコ体験で、パウロはやがて異邦人へキリストの福音を伝えるようになりました。パウロ自身も自分の言葉でこの体験についてガラテアの人たちに書き送っています。

わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選びわけ、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた(ガラテア1:13〜)

佐古さんはこの箇所について「『御子をわたしの内に啓示してくださった』という点が『ダマスコ体験』の核心的な部分だろう。」といっています。つまりパウロは自らの意思で回心したのではない。「御心のままに」「啓示によって」ということだと思います。

さらに、佐古さんは次のように言及しています。

 パウロの「ダマスコ体験」が、事実としてどういう現象であったのかということを合理的に納得することに、私はあまり興味を感じないのです。とにかく、パウロはダマスコ体験によってア−メンといって福音を信じるようになったということです。私は説明はそれだけでいいと思います。だけどそれがどんなに強烈な恩寵体験であったかは、その後のパウロの生き方を見ればわかるでしょう。それは文字どおり「回心」としか言いようがない。最後はロ−マでイエス・キリストのために命をすてるんだからね。こんなに徹底した変わり方はないですよ。

 だから「ダマスコ体験なんか作り話じゃないか」という人もいるけれど、とんでもありません。それがどういう体験であったかという実際の内実について私はこれ以上わからないし、説明のしようがないけれど、とにかくパウロはダマスコで決定的なことが起こったのであり、その結果、彼がそれまで許しておけないといっていたイエス・キリストを信じるようになったということです。

(4)次に親鸞についてその()(しん)はどうであったのか見てみたいと思います。

親鸞の父親は日野有範という皇太后宮職で、母親の出自はわかりません。9歳のとき、あの有名な僧・慈円の下で出家し、比叡山で勉学・修行に励みます。29歳まで20年間、求道の生活を続けても悟りは得られない。仏になるという望みは絶望的に思われ、市内の聖徳太子建立といわれる六角堂にこもり、いわゆる「六角堂体験」を得て、比叡山を捨て、念仏浄土宗の法然の下に走りました。

親鸞といいますと「歎異抄」を抜きにしては語れません。私が歎異抄を知ったのは1988年にNHKの「こころをよむ」を聞いたときでした。これは在日韓国人二世の高史明さんが担当されたまことに心を打つ番組でした。この歎異抄は親鸞没後20年ほどして、弟子の唯円が「親鸞の教えが自分勝手な悟り心を振り回して真実から離れていく、異なったものになっていく、その異を歎いて、親しく聞いた親鸞の教えはこういうものですよ」と書いた親鸞語録です。

パウロが異邦人伝道で築きあげた教会が、ユダヤ律法主義や土着の異教に影響を受けていることを歎く手紙を出していることと重なるという思いもするのですが。

 佐古さんはこの歎異抄などをよりどころに親鸞について語ります。

親鸞は「9歳から29歳までの20年間にわたる比叡山におけるきびしい修行がありました。天台宗の修行というのは今日でも非常にきびしいものです。千日回峰行といって、一千日の間、ひたすら山を昇り降りしたり、京都の町を毎日歩き続ける修行が行われます。これは大変なことらしいですね。全部やり遂げた人はわずかしかいない。記録にはないけれど、親鸞もおそらくこれをやっただろうと言われています。

その親鸞が20年間続けた天台宗のきびしい修行の立場を捨てて、ただ阿弥陀様の本願を信じてお念仏を唱えるだけでいいという、法然の念仏門に入った。それが親鸞の「六角堂体験」による廻心です。さて、親鸞の廻心とパウロの回心とを比較してみると、ユダヤ教、キリスト教と仏教という大きな違いがあるけれども、本質的には似ていると思いませんか。」

親鸞は20年間修行をしても悟りは得られない、いかに修行しても、万巻の書を読んでも性に対する煩悩から逃れ出ることはできない、「生死の出離」はできない、という体験・自覚から「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」という覚悟に到達したのでした。こうしたよくよくの情況の中で「六角堂」に参篭したときの夢に観音様のお告げ(キリスト教でいえば啓示でしょうか)を受け法然の元へ走っていきました。法然は「悟りの道は念仏をとなえなさい。ただそれだけである」と教えます。キリスト教のいう律法によるのでなく「信仰のみ」ということになりましょうか。

念仏・信仰にさわりがあるのなら結婚しなさい、観音が女性としてお前を守ろう、と六角堂でのお告げを受け、親鸞はすべてを受け入れ他力信仰へと廻心しました。そして、行いではない、念仏も一回でもいいのだという絶対他力信仰へと導かれていきました。

律法に関して、非のうちどころのなかったはずのパウロも、親鸞と同じように次のような苦しい経験をしています。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪は行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで善を成そうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体のうちにある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ書、7章)

このように、パウロは「死の体」「惨めな人間」「義人なし、ひとりだになし」といい、親鸞も「地獄は一定すみかぞかし」といわざるを得ない、自分自身と人間そのものの、裸の姿に向きあったことが、神(あるいは阿弥陀如来)の啓示をうけ回心へと導かれる大切な道程であったのだと思いました。

(5)「他力」に徹していった親鸞は

 「弥陀の本願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という境地に達しました。故に「弟子一人も持たず候」とか「父母のために念仏もうさず」という言葉も出てくるのだと思います。佐古さんはいいます。「阿弥陀さんの本願をよくよく考えてみると、全く親鸞一人のために下さったものだ、ということです。親鸞もそこまで徹底していくのです。

またパウロは、そのことを「キリストの愛が、我に迫った」とも言います。神は、この世を愛し給うて、そのひとり子を給わった。それは、御子を信じるものが、一人も滅びず、永遠の生命を得るためですから、佐古純一郎をそこに覚えてくださるわけです。

私はしばしば親鸞の御言葉を借りて「十字架の福音をよくよく案ずれば、ひとえに佐古純一郎がためなりけり」といいます。これは私がただ親鸞のまねをして言うのではない。本当に神様が、この私のためにその一人子を罪なくして、十字架にまでおかけくださった、と思うから言うことができるのです。だから弥陀の本願は一人のためなんだと親鸞は言うのです。

 同様に神は、わたし一人のため、皆様一人一人のためにこそ、ひとり子を送り給うて、十字架の苦しみにまで捧げて下さったのだ、と私たちも信じねばならない。そういう意味での信仰というすがたにおいて、わたしたちは親鸞から謙虚に学ぶことが、大変多いのであります。これが、私の最後に申し上げたいことです。

 私も「わたし一人のため」に主が十字架につけられ、また、わたし一人のために甦られ、「キリストわが内にありて生くるなり」と真実思えるようになりたいと祈っています。

(6)実は、今日の証言の題を「パウロの回心、親鸞の廻心そして‥‥」としましたのは、そのつぎに、「では、あなたは?」と続かざるを得ないだろうと思ったからです。で、私の場合は両親がクリスチャンでしたから、何となくここまで来てしまった、ということですが、その中にも流れはありました。戦争中、クリスチャンゆえの子ども心に感じた肩身のせまさ、戦後は、父が戦争中いわゆる日本的キリスト教のほうへ身を寄せたことへの後ろめたさ、といったことなどを経験しました。しかし、教会学校いらい教会生活は続いていました。時に引越しをして教会を離れたときに、なんともいえない開放感を感じたりしましたが、暫らくすると、これでいいのかという、何かに後ろから引っ張られる思い‥‥これがキリストに捕らえられていることなのだ、といつの間にか素直に感じるようになりました。罪意識といいますか、自分はどうしようもない人間だという思いは年を重ねていくうちに深くなってきましたが、山本三和人先生の証言でそれは確かなものとなりました。それゆえに教会生活を自覚的に送るようになったと思います。

 洗礼は21歳のときに水戸教会で受けました。牧師先生が大阪に転任されるにあたって、その前にぜひ洗礼式をしたいというたっての希望により、何の準備もないままに受けることになりました。無謀なことであったかもしれませんが、今では恵まれたスタ−トであったと思っています。信仰に確信が持てたら、ということであれば、いまだに受洗には至らなかったでしょう。神様のおはからいに感謝しています。

 歎異抄を読んだとき、親鸞が「たとい法然上人にすかされ(だまされ)まいらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」という言葉に出会い、「たといキリストにすかされまいらせても、さらに後悔すべからずそうろう」といえるようになりたいと思いました。パウロ・親鸞の徹底した罪びと自覚・回心経験はないのですが、一人ひとり回心のあり方は違うと思います。神様がそれぞれ良きように計らってくださるものだと思います。

最後に、この佐古さんご自身の回心はどうであったか読んでみましょう。

「よく、どうしてお前は浄土真宗からキリスト教に移ったのか、というご質問を受けるのですが、それぐらい私が答えに窮する質問はございません。私自身どうして浄土真宗から福音信仰に移ったのか、親鸞の言葉をもって申しますならば「存知せず」であります。わからないのであります。そういうところにまた親鸞の言葉で言えば「不可思議な他力のはからい」がある。比較宗教学的に較べて、どうもこちらの方が分が良さそうだから、というような分別をもって私は移ったわけではありません。親鸞が間違っているからキリスト教に変わったのでもございません。どうぞそのようなことをご了承下さい。」

 なお、つけ加えさせていただきたいのは、高史明さんの回心についてです。「こころをよむ・歎異抄」のテキストの一部を読ませていただいて終わりにしたいと思います。

「私は朝鮮人ですが、私の妻は日本人であります。この私たちの間に、一人子が恵まれていました。私たちにとっては、それこそ何ものにも代えがたい、宝のような子でした。それだけでなく、近代のはじまりにおいて生じた、朝鮮と日本の不幸な出来事を考えますとき、私たちにとってその子は、その不幸をのり越えてゆく両者の掛け橋でもありました。私たちが、そのように思うのは、親の身勝手というものでありましょうか。そうでないとは言いきれません。しかし、それが私たちの偽りのない、願いでもありました。その大切な、大切な子が、死んでしまったのであります。しかも、それが自死でした。そのときまだ、12歳でしかなかった子が、その年齢で自ら生命を断って、世を去ってしまったのであります。それから13年ほどの年月が経過していますが、いまなお私は、そのときのことをよく言い表わすことができません。

そのとき私
は、私がそれまでに頼りとしてきた“自分”というものを、根こそぎ打ち砕かれてしまったのだ、と言えます。大切な、大切な子。その子を、私がそのように思っていたことは確かだとしても、私の“自分”というものは、その子の苦悩を、同じ屋根の下にいながら、まるで感じとることができなかったのでした。それは、この私こそが、たとえ頭の中で、その子をどんなに大事に思っていたとしても、その大切な子を、死に追いやった張本人であった、ということにも通じる鈍感さであったといえます。この鈍感さは、何であるのか。

何が、このようにも生命の息吹を、直接に感じさせなくしていたのか。私が「歎異抄」の前に跪くようになったのは、この出来事があってのことでした。仏教に背を向けていた私とは、いのちに背を向けていた人間だったのでした。死んだ子が、この私を「歎異抄」へと導いてくれたのであります。今日のご縁に不思議を感じる私の胸底には、この子への言い表しようもない思いがあって、それが強く波打っているのであります。」

証言資料 

親鸞11731262) 9歳の春、慈円の下で出家。29歳、法然の専修念仏に帰依。1207年、危険思想として法然以下死罪・流罪となる。親鸞は結婚も破戒行為として僧籍剥奪され越後に流罪。4年後、許され上野、常陸等で布教。1234年ごろ帰京。12621128日没、90歳。<主著>教行信証(1224年) <親鸞語録>歎異抄(弟子の唯円による) パウロPaul(ローマ名、サウロはヘブル名)小アジア・キリキア州のタルソに生まれる。8日目に割礼を受け、ユダヤ教徒として教育される。ヘレニズム文化のなかでギリシャ語も自由に話し、ローマの市民権も持つ。青年時代、エルサレムの律法学者・ガマニエルのもとで学んだパリサイ派の厳格なユダヤ教徒。キリスト教徒が律法・神殿を軽視することに憤慨し迫害する。後、キリスト教に回心し、異邦人伝道に力を尽くし、ローマで殉教したと伝えられる。<資料>パウロが書いたローマ人への手紙からピレモンへの手紙まで13通。ルカが書いた使徒行伝もパウロの迫害・回心・伝導を伝える。

高史明1932−)山口県に朝鮮人2世として生まれる。高等小学校中退後、さまざまな底辺労働を遍歴、政治活動にも参加するが文学に道を求める。1975年、いとし子、岡真史が12歳で自死。このことにより歎異抄と親鸞上人に導かれる。<主著>『いのちの優しさ』『一粒の涙を抱きて』『少年の闇――歎異抄との出会い』など。

佐古純一郎1919−)徳島県の西本願寺の末寺に生まれる。二松学舎で日本文学を日本大学文学科で日本仏教史を学ぶ。戦後、森有正に出会いキリスト教に導かれる。現在、中渋谷教会名誉牧師。<主著>『佐古純一郎著作集』全8巻、『夏目漱石の文学』『芥川龍之介の文学』など。学術誌『論究』を主宰。

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