ころもがえの季節
(1983.3.27 目白・山本先生宅での礼拝)

山本三和人

 いままで、このようなことを経験したことはありませんでしたが、つい先日、本格的な春を思わせるような暖かい日が訪れたときのことです。上着を脱ごうとしたところ、左の肩に痛みが走って左手を肩の上まであげることができなくなってしまいました。

 そのとき、「寒さがきびしいときは厚着をしていても気疲れをするようなことはないのに、気候が暖かくなると、たった一枚の上着でも肩の負担となる。それに気づかないで厚着を続けていると、その重みが身体の中に蓄積されて身体のどこかの自由を奪うことになり、そうなれば春がきても、そのよろこびが感じられなくなる。春を迎え、春を楽しく生きるための条件の一つは冬の厚着を脱ぎ去ることである」ということに気がつきました。

 さて、私たちの教会に新しい春が近づいています。私たちが今やらなければならないことは、永く続いた私たちの教会生活の中で、いつとはなしに身につけた習慣や常識の重ね着を一枚づつ脱ぎ捨てることです。

 パウロは、ローマ教会の信徒たちに、「あなたがたが眠りから覚めるべきときが近づいている・・・・・・夜はふけ、日が近づいている」と述べた後で、「だからやみの業(わざ)をすてて、光の武器を着け・・・・・・主イエス・キリストを着けなさい」とすすめました。彼はあたらしい朝、あたらしい春の到来に備えてしなければならないことは、ころもがえであることを教えたのです。

 一つの教会における牧師の任期が永くなればなるほど、その教会員に対する牧師のお仕着せは厚着となります。このような場合、「衣を脱ぐ」ということは、教会員が牧師の影響を超えてその上に立つということなのです。そのことは教会員が牧師を愛すれば愛するほど必要になります。

 私たちの教会の春の到来を身近に感じながら、いま私が願うことは、私が全幅の信頼をもってその夢を託した役員たちが、多くの教会員と共に私を踏み越えて前進することにあります。

 牧師である私がみんなの足手まといにならず、しかもそれでいて、それぞれの前進する後姿を見ることができたら、私ははじめてロゴス教会の牧師であったことに喜びとささやかな誇りを感じられるようになると思います。

 私はそういう日が一日も早く訪れることを、心から願っているのです。

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