聖書とは何であるか。 

山本三和人(共存の道から)

聖書の読み方 『聖書』は教会と信仰生活の唯一の規範、正典であると言っても、聖書への接し方と聖書の読み方の違いによって似ても似つかない信仰の姿勢が生まれます。私たちはどのように聖書に接しているのでしょうか。イエスの言葉に重点をおいて聖書に接する人の多くは、数々の教訓を重んじその教訓に沿った宗教生活の姿勢を整えようとします。その結果どうしても禁欲主義者や律法主義者たちのような宗教生活を送るようになります。このような聖書の読み方からは、宗教生活は生まれても信仰生活は確立されません。キリストの行為を重視して聖書を読む人は、キリストの行為に光を当ててキリストの教訓に接します。「父よ 彼らをお許しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と祈るイエスの行為は、私たちを人間の行為を越えた者に導き、キリストが私たちの見習うべきお手本以上のお方であることを悟らせ、キリストを信じ礼拝する気持ちに変えます。

独善と偽善の誕生
 このような変化は「マタイ」「マルコ」「ルカ」などの共観福音書を重視するか、それとも「ヨハネによる福音書」やパウロの書簡を重視するかによっても生じます。共観福音書を重視してその光のもとに第四福音書やパウロ書簡を読む場合と逆にパウロのキリスト論を重視し、その光で共観福音書を読む場合とは全く違った宗教生活または信仰生活が生まれます。共観福音書の方を好んでパウロ書簡をあまり好まない人は理屈よりも教訓が好きな人と思われます。そのような人はどちらかというとキリストを尊敬しお手本として、キリストに少しでも近い生き方を整えます。その結果、宗教生活は生まれるが信仰生活は姿を消し、徐々に律法主義や禁欲主義の傾向を帯びてきてやがて共存の道からも外れます。贖いの行為よりも教訓を重んじる人は、選民意識や選別意識が強くなって異邦人や異教徒は勿論のこと、一般世俗の人々との交わりをも避けたい気持ちに誘われます。信仰を守るということが偏見と差別の理由になってしまうのです。日夜聖書の言葉に学び聖書の言葉に従って宗教生活を営んでいたパリサイ人に「あなたがたはわざわいである。外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」(マタイ23:27-28)とイエスが厳しい口調で言われたのは、私たちも聖書の読み方を誤るとどんなに聖書を重んじても否、重んじれば重んじるほど独善と偽善の傾向を強めることになることを教えています。

律法はキリストのあかし ではどのように聖書を読めばその独善と偽善を免れることができるのか。問いは答えによって規制されます。HowWhatによって決定されます。聖書をどう読むかは聖書が何であるかによって決まるのです。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は私についてあかしをするものである」「この聖書」とは旧約聖書です。このキリストのお言葉によると聖書はキリストの証であります。本来キリストの証として神が与えられた律法を自分たちの道徳性や宗教心に訴える教訓として重んじることで実は律法そのものを失っていたユダヤ教徒を見てイエスは「あなたがたは神がつかわされた者を信じないから、神の言はあなたがたの内にとどまっていない」と言われたのです。パウロは「しかし今や、神の義が律法とは別にしかも律法と預言者とによってあかしされて現された」(ロマ321)と言いました。パウロにとっても律法はキリストの証でありました。パウロの信仰生活の中で律法がどのようにしてキリストの証としての働きを示し、彼をキリストに導いたのでしょうか。非常にはっきりしていることは律法がパウロに罪の意識を与えたことです。「律法によらなければわたしは罪を知らなかった」と彼は言います。「律法がなかったら罪は死んでいるのである」わたしはかつて律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで罪は生き返りわたしは死んだ」とも述べています。パウロは律法によって示された罪と死の現実の中から「自分はなんというみじめな人間なのだろう。だれがわたしをこの死の体から救ってくれるだろう」と救いを求めて声を上げました。そしてその身と心とキリストにゆだねました。

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