捨てられた石に思う

(1983.5.1 目白の山本先生宅での礼拝)

山本三和人

 つい先日のこと、暖かい春の陽ざしの中で、すっかり荒れてしまったわが家の庭を見ていたら、いろいろな思いが私の心をよぎっていきました。

 この家が建てられたとき、それまで門柱に使われていた石が倒されて、真っ二つに折られ、その醜い姿は永いこと庭の真ん中にさらされていました。石は目障りであるばかりか、だんだん歩行の妨げにもなってきたので、私は庭の隅のほうへ動かそうとしましたが、重すぎて自分の手には負えませんでした。しかたがないので石のそばに穴を掘り、その中に石を落として地ならしをしました。

 それでもなお石が地面に顔を出していて目障りではありましたが、つまずくおそれだけはなくなったので、そのままの状態にしておきました。それから20年近くの歳月が流れました。ひょっとしたらそのせいなのでしょうか。それとも石を囲む小さな自然がその懐に異物を迎え入れたためなのでしょうか。あるいは石とそのものが環境になじむ努力を重ねたためなのかも知れませんが、今ではうっすらと緑の苔が石の表をおおい、さらにしだや熊笹がそれを囲むように密生を始めました。

すると、石はまるで所を得たようにそこに落着き、今はもう全く目障りではなくなりました。そればかりか、私自身の勝手な空想を交えながら見ていますと、石は庭の中央を縦に流れる小川にかかる橋にさえ見えて、石がそこにあるということで庭にある種の一体感を与え、まさに聖書がいうところの、「家造りらの捨てた石が隅のかしら石となった」ということばにぴったりあてはまるような感じになってきたのです。

 さて、私の庭の「捨てられた石」は20年足らずで庭に同化しましたが日本のキリスト教会は四百年以上経っても、まだこの国土と国民の心に定着したとはいえないような気がします。いいかえれば日本の教会の現状は、「家造りらが捨てた石がかしら石となった」とはいいきれないような気がするのです。

 キリスト教が、日本の国土と日本人の心の中に受肉し、定着し、日本の新しい文化を創造するエネルギーとなるのは、いつの日のことでしょうか。また、その日の到来をたしかめ、早めるために、私たちは何を、どうすれば良いのでしょうか。

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