私は人間

(ろばのみみ5 1963.2.22)

 山本三和人

 むかし、アシジの聖者フランシスが、弟子のレオを連れてシエナの街へ伝道にでかけたことがあります。終日街頭に立って、「清貧の徳」のすすめをしましたが、誰一人立ち止まって耳を傾けようとはしませんでした。

 しかし香具師(やし)が熊を踊せている近くの大道には、大勢の人が集まっていました。それを見たフランシスは、「自分は熊を踊らせる香具師にも劣る」と、寂びしそうにいいました。帰る道すがら、フランシスは井戸から目を離し、レオを振り返って、「レオよ、君は、私がこの井戸の中で何を見たと思うかね」と、聞きました。

 するとレオは得意そうに、「それは、井戸の水に映って砕ける月影だと思います」と答えました。しかし、フランシスは、「ちがう」と短く答えただけでした。

 実はフランシスがそのとき井戸の中に見たものは、美しい月影や、あたたかい眼差しのキリストではありませんでした。彼は井戸の中の暗闇の一隅に、フランシスに向かってほほえみかけるクララという美しい女性の顔を見たのです。慰めるように、また、力づけるように迫り、語りかけてくるクララー。その面影によって彼は自分自身から失われようとしていたほほえみをとり戻すことができたのです。

 私は、「牧師のくせに<背徳者>だ」といわれるかも知れませんが、この話が好きです。ですから人間に忠実で正直な作家、そしてこの物語の著者でもある、アナトール・フランスの姿に心をひかれます。また、アナトール・フランスには『タイース』という作品もあります。

        あるところに、人々の前で衣を脱ぎ、自分の裸体を見世物にしてお金をもらって生きている
       年若く美しい一人の女がいました。
        修道院は彼女を哀れに思って近づき、こんこんと神の教えに帰るようにすすめました。あま
       りにも修道僧が熱心に説き明かすものですから、彼女はその熱意に動かされて修道院に入
       ることになりました。
        しかし、彼女を尼僧の手にゆだねて帰ってくると、その修道僧は急に落ち着きを失い、寂し
       さとみたされぬ想いに捉われます。聖書を読んでも神に祈っても、埋めることができない魂の
       空洞があるのです。そして修道僧はやがて自分の魂の空洞が、その女によってうがたれた
       ものであることに気がつくのです。
        人々の尊敬と信頼を一身に集めている高徳の修道僧が、一人の女に心を奪われ、悩み苦
       しんでいるのです。彼は神の助けによって女への思いを断ち切ろうと思い、廃墟に残る円柱
       の上に座り込み、断食と瞑想にはいります。
       「ただでさえ徳の高いお方が、またまた難行苦行を始められた」というわけで、その徳にあや
       かりたい、と願う善男善女が大勢円柱の周囲につめかけてきました。
        ところで修道僧の方は、その精神的苦痛に耐えきれず、遂には円柱から落ちて気を失って
       しまいます。そして尼僧にゆだねてきた女が、死にかけている幻を見るのです。やがて我に
       かえった修道僧は、まっしぐらに尼僧院に駆けつけ、今まさに死の床に着こうとしているその
       女をかき抱き、「さわるな!これはおれの女だ!」と叫びます。
        そして女の耳もとで、「死ぬんじやない!死ぬんじやない!おれはお前に嘘のことを教えた。
       天国なんて大嘘だ。この世でいちばん大切なのは、愛だ」と、言い聞かせます。しかし女は、
       彼の胸に抱かれながら、「キリストさまが見えます」といって息を引き取っていくのでした。

 信仰心のあついクリスチャンの考えからすれば、最も大切なことは、人間のことではなく、神さまのことだと思います。
 率直に考えて、「神さまと恋人とでは、どちらをえらびますか」と聞かれたらその人々は、「神さまです」と答えるだろうと思いますし、「キリストのいない天国へいくより、キリストと共に地獄へいきたい」というかも知れません。私はそのようにあつい信仰を抱いている人たちは、「立派だ」と思います。

 しかし一方私は、「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身が呪われて、キリストから離されてもいとわない」といった人間パウロの信仰に、より心をひかれます。

 私自身それこそ友人や恋人を離れて一人で天国へ行くより、彼らと一緒に地獄へ行くことの方を選ぶだろうと思います。一般的な概念からすれば、牧師がこのようなことを書いたり、話したりするのは、まことに<背徳的>な行為だときめつけられかも知れません。

 しかし私は、人間のこうした偽りのない真実の心を神の前に率直に言い表すとき、神はけっしてその心を閉ざしてしまうようなお方ではないのだ、ということを固く信じているのです。

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