神の法廷の被告

山本三和人

 

初代教会の中には食べ物でも飲み物でも、清いものと汚れたものとがあり。信者は自分の信仰を守り清さを保つためには、汚れたものには口をつけてはならないと互いに裁き合い、せめぎ合っていたようです。パウロは警告します。(ロマ4:10)。人を罰したり許したりすることのできるのは、罪を犯したことのない人だけです。人間は罪人ですから人を裁く権利も資格もありません。資格も権利もない者の裁きは罪です。律法のに対する違反行為です。神のなし給うことを神に代わってする越権行為ですから、最も重い罪と言えます。このような重い違反行為を犯すことがないように『ヤコブの手紙』の記者は「たとえ律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば全体を犯したことになる」(ヤコブ2:10)と述べます。私たち信仰者が片時も忘れてならないことは、私たちは原告でもなければ裁き人でもなく、神の法廷の被告であるということです。どんなに強い召命意識があっても、どれほど確かな選民意識を抱いていても、私たち人間が罪人であり、神の裁きの座の前に立つ神の法廷の被告であり、人をその食べ物や着物のことで裁く権利も資格もないという事実は変わりません。信仰生活の整えるべき姿勢は、思うべき限度をこえて思い上がることなく、慎ましく謙虚に全ての人を愛し、互いに手を取り合い、助け合って平和な世界をつくるために祈りかつ努めることです。

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