神の行為死

山本三和人

 

罪は一種の負債です。自ら多くに負債を負うている人が、人の負債の肩代わりをすることはできません。人の負債の肩代わりをすれば、自分の負債が払えなくなるか、新たな負債を負うことになります。ですから、罪のない者が罪人の罪を引き受けて、罪の支払う報酬としての死を受け取るときだけ、人を罪としての束縛から解放することができるのです。では、人間の世界に罪のない人がいるでしょうか。姦淫の現場から連れてきた女性をイエスの前に突き出して「この女を石で打ち殺してよいか」と尋ねた人たちに、イエスは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と言われました。しかし、石を拾ってその女性に投げつけた人は一人もいませんでした。罪のない人は彼らの中にも、私たちのなかにもいません。罪のない者といえば、神をおいてほかにありません。神の死などという言葉は恐ろしく背信めいた響きをもっていますが、実は、神の死のみが唯一の行為死です。神が人となり、人の罪を自らの罪として引き受け、その罪のための裁きを受けて死んでくださることでしか、人は罪と罪の代価としての死の支配から解き放たれることはできません。罪と罪の支払う報酬としての死からの解放は、イエス・キリストにおいて行われた神の行為死によってのみ現実となります。

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