神の食欲


山本三和人

律法は神の巨大な胃袋であり満たされることのない食欲です。それは知識に対する食欲ではなく行為に対する食欲です。律法についてどれほど真剣に学び、どれほどはっきりと善悪をわきまえ知るに到っても、律法の空腹はみたされません。律法の空腹はただ人間の行為によってのみ満たされます。ところが人間はこの行為を欠いています。すなわち神の空腹を満たそうとはせず、自分の空腹を満たそうとしています。サマリヤの女がキリストに一滴の水をも差し上げようとはせず、自分の渇きのみを満たそうとしたように、私たちは自分の渇き、自分の飢えのみに仕え、その飢えと渇きを満たすために、神を自分の腹の中に詰め込もうと貪欲な企てを繰り返しています。そして神を軽んじ律法を限りなく破っています。私たちは神の巨大な食欲(要求)に給仕するために、心を尽くして働かなければなりません。もし、私たちの努力が真剣であれば、私たちの努力の大きさに比例して増大する神の食欲の前に立たされるでしょう。そして、自分の非力と罪の深さとを今更のように知らされるでしょう。そしてパウロと共に「我がなさんとする善はなさず、我がなすまじと欲する悪は却ってこれをなす。ああ、我悩めるかな、我をこの死の体より救わんものは誰ぞ」と叫ぶでしょう。この時、私たちは主イエス・キリストにある神の救いに心を開き、福音を受け入れる素直な心の状態に導かれるでしょう。

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