キリストの死

山本三和人

 イエスを十字架にかけた人々や、「お前が神の子ならそこから降りてみろ」と罵る群衆に対して、イエスは恨みや憎しみの言葉を語るどころか、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分がしていることがわからないのです」(ルカ23:34)執り成しの祈りを捧げておられます。心なき人々がイエスの命を奪ったというよりは、イエスご自身が、心なき人々への愛ゆえに、ご自分の方から進んで自分の命を与えたとしか思われません。パウロは「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であったとき、わたしたちのためにがキリスト死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ロマ5:7-8) と述べています。正しい人や善人のためにさえ、自分の命を捨てる人はほとんどいません。キリストの事実は、このような人間の常識ではとても計ることはできません。イエスは、人間の上り得る最高の地点まで上りつめた人間ではありません。神と等しい位にありながら、その位を惜し気もなく捨て、自分を低くし、空しくして人間の像をとって、私たち罪人に近づき、私たちの重荷を代わって担い、十字架上の死を遂げてくださったお方であることは、疑う余地がありません。

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