パリサイ人

山本三和人

 パリサイ人と呼ばれた人たちは、善悪の価値判断を人間にまでも加えて、善人と悪人とに分けました。そして、自分は善人の側に立ち、自分と異なる思想と宗教の人々をことごとく悪人の側においてこれを裁き、その悪人から自分を守るために、悪人との交わりを避けることを願ったり、努力したりすることが、信仰生活であると思っていました。しかし同じ人間を善人と悪とに分けて、善人とは交わり、悪人とは交わらないということは、偏見であり差別の思想であり裁きの行為に他なりません。パリサイ人は律法を重んじ、律法に従って宗教生活を整えていたように見えはしましたが、本当は律法を軽んじ、律法の戒めを厳しさを割り引きして、これに接していきました。神の戒めの光を当てて見るならば「正しい者はいない。独りもいない。悟る者もなく、神を探し求める人はいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ロマ3:10-12)とあるように、神のほかに善人など一人もいません。人間に人間を善人と悪人に分けたり、自分を善人の側において悪人の裁きを行ったりする資格や権利のある人など、一人もいません。自分が間違いなく人間に対して、善悪の価値判断を加える絶対的な知力を備えていると思う人は、エデンの園の禁断の木の実を食べて、自分を人神に祭り上げた人だけです。

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