世俗との共存

山本三和人

 神様がどうして人間の姿をとって現れなさったかと言いますと、人間は人間の言葉でしか他を理解し得ないし、人間の事物をとうしてしか理解し得ないからです。ですから神さまは、世の人を救うために世を愛し、世に対して御子を下さったのです。ですから私たちは、世に対する関心をなくし、世の持てる知識を無視し、世との交わりを絶ち、世から離れて自分の救いを全うすることはできません。パウロが「わが骨肉のためならんには、キリストからのろわれて捨てらるるもわが願うところなり」といったのも、「己の如く汝の隣り人を愛すべし」という言葉において「律法の全体が言いつくされる」と言ったのもこのためです。私たちは、世を蔑んだり、世を恐れたり、世から遠ざかったりすることがないために、私たちのひとりよがりの信仰と戦わなければなりません。日曜日ごとに教会の礼拝に出席する忠実なキリスト者と、日曜ごとに歓楽街に出かけて行って、酒を飲んだり、映画をみたりする非キリスト者とを比べて、前者が後者を憐れんだり、蔑んだりすることのないようにせねばなりません。教会も世俗によって助けられ支えられて、多くのよきものをそこから与えられ、世俗に負うところが少なくありません。これを感謝もしないで受けながら、世俗を蔑んだり、世俗を恐れたり、教会の世俗化を非難したりするのは、身勝手というものです。

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