終末信仰

山本三和人

 私たちの「信仰」が、刻々と沈みつつある現世というおんぼろ舟から、神の国という永遠の不沈艦に乗り換えるためのパスポートやビザであるとするならば、その教会に連なり、教会の中の営みに加わって、静かに祈りのうちに神の国という不沈艦の到来を待てばよいでしょう。もう現世という難破船など眼中に入らなくなります。このような終末信仰は、私たちから現世の世界に対する興味と関心を奪って、私たちを世界の中で孤立させてしまいます。人間の時と神の時とを一本の水平線上につないで、AからBまでの線で人間の時を表し、BからCまでの線で神の時を表し、A-BとB−Cの間に、キリストの再臨や最後の審判を置くような終末信仰では、信者のひとりよがりの安らぎや救いは得られても、人間の世界の客観的な現実的な救いをもたらすことには役立ちません。万物が終わって新しいはじまりが始まるのではなく、むしろ、新しい世界がはじまって万物が終わるのです。人間の水平史は神の救済史の働きがなければいつまでも終わることはありません。いつまでも続く人間の水平史の中に神が降りて来給う時、即ち神の時が上から下へ垂直に人間の水平史に関わってくる時、その時、そこで古き人間の歴史と古き人間の世界が終わるのです。このような中味をもつ終末信仰にして、はじめて私たちの現実の人間関係に変革を迫ることができるのです。「新しい創造」(パウロ)です。

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